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長野地方裁判所 平成2年(行ウ)6号 判決

原告

熊谷初穂

右訴訟代理人弁護士

山下登司夫

小野寺利孝

上柳敏郎

和田清二

上條剛

佐藤豊

滝澤修一

原正治

被告

飯田労働基準監督署長

伊藤仁

右指定代理人

新堀敏彦

外九名

主文

一  被告が昭和六〇年三月二九日付で原告に対してなした労働者災害補償保険法による遺族補償給付及び葬祭料を各支給しない旨の処分を取り消す。

二  訴訟費用は被告の負担とする。

事実及び理由

第一  請求

主文同旨

第二  事案の概要

一  当事者間に争いのない事実

1  原告の長男である亡熊谷喜久男(昭和三二年一〇月二四日生。以下「喜久男」という。)は、昭和五三年三月、東京都立工科短期大学電気電子科を卒業し、いったん東京都内の会社に就職したが、昭和五四年一〇月、郷里の長野県下伊那郡阿智村に帰り、同県飯田市鼎所在の会社に勤務した後、昭和五五年六月一六日、同市久米二九番地四所在の訴外信菱電機株式会社(以下「信菱電機」という。)に入社し、同年七月二〇日から信菱電機本社工場(以下「本社工場」という。)に配属されて塗装用ロボット操作業務に従事し、昭和五六年九月一六日から同市毛賀一六三六番地二所在の信菱電機毛賀工場(以下「毛賀工場」という。)に異動になり、同工場において、プリント基板(以下単に「基板」という。)の品質管理業務に従事し、死亡当日の昭和五八年一二月一四日まで約二年三か月間、右業務を続けていた。

2  喜久男の信菱電機における昭和五五年七月から昭和五八年一二月一四日までの間の勤務状況(出勤日数、残業時間等)は、別紙1のNO1ないしNO4記載のとおりである。

3  喜久男は、昭和五八年一二月一四日、毛賀工場において、午前八時二五分から午後五時まで通常業務に従事した後、午後五時一〇分から午後七時一〇分まで基板の不良品検査及び不足部品の挿入作業、午後七時四〇分から午後八時三五分まで基板の不良品検査及び修正作業、午後八時三五分から午後八時五〇分までトラックへの製品積込作業を行い、その後、毛賀工場から約九キロメートル離れた本社工場へ自家用車で赴き、午後九時四五分ころ、本社第二工場内のパテレーナ(金属製の台車付製品篭)にもたれかかるようにして倒れ、本社工場の従業員らにより医師の往診依頼と人工呼吸、心マッサージが行われたが、医師がかけつけた時点で既に呼吸停止、瞳孔散大、各反射消失しており、午後一〇時二九分、医師により死亡が確認された(トラックへの製品積込作業終了後の喜久男の行動については争いがある。)。

4  喜久男の直接死因は、右医師の診断によれば急性心不全であるが、右直接死因の原因疾病については、喜久男の遺体が解剖されないまま火葬に付されたことから、病理学的実証は不可能となった。しかし、喜久男は、死亡の直前に胸内苦悶の主訴はなかったことから、心疾患は否定され、かつ、頭痛、髄膜刺激症状と見られる症状があったこと、突然の意識消失、全身の痙攣及び意識消失後に脈を触れていたなど、くも膜下出血の典型的な発症時症状を示していたこと、また、一般にくも膜下出血の原因としては脳動脈瘤破裂が全体の四分の三ないし八〇パーセントとされており、喜久男の場合は出血後の予後が不良で、発症後すぐに意識障害を生じ、わずか四五分ほどで死亡が確認されている激症であったことなどから、右原因疾病は、脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血(以下「本件疾病」という。)であると推認される。

5  原告は、喜久男の父であり、喜久男の死亡が業務上の事由によるものであるとして、被告に対し、昭和五九年八月一三日、労働者災害補償保険法一二条の八第一項四、五号所定の遺族補償給付及び葬祭料の支給を請求したところ、被告は、昭和六〇年三月二九日、業務上の事由による死亡とは認められないとして右遺族補償給付及び葬祭料を支給しない旨の決定(以下「本件不支給処分」という。)をした。そこで、原告は、本件不支給処分を不服として同年四月九日、長野労働者災害補償保険審査官に対し審査請求をしたが、同審査官は、昭和六一年一二月五日、右請求を棄却する旨決定したので、原告は、昭和六二年二月四日、更に労働保険審査会に対し、再審査請求をしたが、同審査会は、平成元年一二月一五日、右請求を棄却する旨裁決し、右裁決書は、同月二五日、原告に送達された。

二  争点及び争点に関する当事者の主張

喜久男の死亡の業務起因性

(原告)

被災者が基礎疾患に罹患している場合であっても、業務が基礎疾患と共働して直接死因となる疾病を発生させた場合には、業務と死亡の結果との間に相当因果関係が存し、業務起因性があるものと解すべきところ、喜久男は、以下のような過重な業務による肉体的・精神的負荷により、疲労が蓄積し、血圧上昇が起こりやすく、また、血管壁が脆弱化した状況で、死亡当日の業務に従事したため、血圧が上昇して喜久男の基礎疾患である脳動脈瘤が破裂し、くも膜下出血を発症したものであるから、喜久男の死亡は、業務起因性がある。

1(一) 喜久男は、毛賀工場に配属された昭和五六年九月一六日から死亡当日の昭和五八年一二月一四日まで別紙2の喜久男の勤務実績欄記載の労働を続けた。(以下、信菱電機の給与体系に従い、特定月の労働時間等は前月一六日から当月一五日までの実績をいう。)これは、労働白書の統計資料による製造業の平均(以下、右統計資料に基づく数字を単に「製造業平均」ということがある。)との比較欄から明らかなように、著しい長時間労働である。

(二) また、もともと信菱電機の所定労働時間は、製造業平均に比較して一か月あたり二九時間以上長くなっている。

(三) 信菱電機が飯田労働基準監督署に届け出ている、いわゆる三六協定によれば、昭和五六年一一月二〇日から昭和五七年一一月一九日までは「一日最高一二時間・一か月一二〇時間」、昭和五七年一一月二〇日から昭和五八年一一月一九日までは「一日最高八時間・一か月一〇〇時間」であるが、喜久男が三六協定時間を超えて所定外労働時間を行った月が昭和五六年一〇月ないし一二月、昭和五七年二、三、六、七月の七回ある。

(四) また、喜久男は、自宅に仕事を持ちかえり、タイム・レコーダーに現れない残業を行っていた。

2 右のような喜久男の著しい長時間労働は、以下のような毛賀工場における喜久男の職務状況から必然的なものであった。

(一) 喜久男は、毛賀工場内において、基板の品質管理業務に関する唯一の専門的技術者であり、不良品が出た場合に不良箇所を特定し、手直しをする作業は、専門的技術を有する喜久男しか行えなかったから、喜久男は、代替性のない労働力であったが、信菱電機では、補助者を置くなどのサポート体制をとらなかった。

(二) 信菱電機は、訴外三菱電機株式会社(以下「三菱電機」という。)の専属的下請企業であり、毛賀工場では三菱電機長野工場から発注された基板を製造していたが、受注した生産を達成し、納期に間に合わせるために長時間労働が必要であった。

(三) 喜久男が担当する基板の不良品検査は、組立ライン及びその後工程である検査ラインよりも更に後工程であるから、欠勤者等が出て作業が遅れると、就業時間内の優先順序は、組立ライン、検査ラインの順になり、喜久男しか行えない不良品の手直しの作業は、就業時間外に行うことになる。また、検査自体、長時間を要する作業であった。

(四) 三菱電機長野工場に基板を納入しても、三菱電機側の抜き取り検査で不良品が出ると当日分の納入基板全てが返品され(以下「ロットアウト」という。)、改めて検査と手直しをする必要があり、その数量は一〇〇〇個以上に及ぶこともしばしばあった。また、三菱電機長野工場側の生産ラインの都合で間に合わないときは、喜久男が同工場まで出張して手直し作業を行っており、出張回数は、死亡前の三か月で五回と頻繁になっていた。

3 毛賀工場では、昭和五八年五月までは、専らVTR用基板の組立を行っており、一か月に組み立てる機種は二ないし四機種であったが、昭和五八年六月からは、VP用基板の組立作業を中心とするように変更され、一か月に組み立てる機種が六ないし一四機種と増え、かつ、同一機種でも二ないし四種類の異なる図面番号を有するものが多くなり、併せてVTR用基板の組立も一ないし二機種は行っていたから、ほとんど毎日のように機種が変更されるといっても過言ではない状況となり、品質管理の責任者である喜久男の肉体的・精神的負荷は増大した。

4 このような過重な肉体的・精神的負荷による疲労の蓄積のため、喜久男は、昭和五八年六月ころから強い疲労症状を呈するようになり、その後、これが増大し、同年一二月ころには、通常の日曜日に休んでもとても回復不可能なほどに疲労の極限状態に達していた。

5 喜久男は、死亡当日の昭和五八年一二月一四日、毛賀工場での残業中に、信菱電機本社から本社第二工場でのクリーナー収納箱の組立作業の残業応援を午後九時から行うよう突然指示され、午後八時五〇分ころ、一箱約一〇キログラムの製品の入った段ボール箱を気温2.5度の寒気の中でトラックに積込む作業を終えてから急いで本社第二工場に赴き、直ちに右残業応援に従事し、作業中に「ラインを止めてくれ。」と言って倒れ、くも膜下出血により死亡するに至った。

右は、毛賀工場での通常業務終了後の残業に続く残業のはしごともいうべき事態であり、また、本社第二工場での作業が毛賀工場での検査作業とは異質の立ち仕事であり、ラインの早さに慣れていない喜久男に過重な精神的・肉体的負荷をもたらしたものである。

6 脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血の原因は、脳動脈瘤血管壁の脆弱性の増悪と血圧の上昇であるところ、喜久男は、慢性疲労の蓄積により、ホルモン、自律神経、免疫力の失調をもたらし、血圧上昇を反復継続させるとともに、これが血管壁の脆弱性を増悪させる誘因となり、さらに、死亡当日の残業により血圧が上昇して脆弱化した脳動脈瘤が破裂するという事態に至ったものである。

7 なお、被告が依拠する労働省労働基準局長通達(昭和三六年二月一三日付基発一一六号「中枢神経及び循環器疾患〔脳卒中、急性心臓死等〕の業務上外認定基準について」、以下「旧認定基準」という。昭和六二年一〇月二六日付基発六二〇号「脳血管疾患及び虚血性心疾患等の認定について」、以下「新認定基準」という。)及びその理論的支柱である相対的有力原因論は、労働者災害補償制度を損失補填ととらえているが、右制度は労働と関連して傷病を生じた労働者の最低限度の生活保障を目的とするものであるから、業務が他の共働原因に比べて相対的に有力な原因でなければ業務起因性がないとする相対的有力原因論の合理的根拠は存しない。

(被告)

業務起因性の判断については、業務と発症原因との間の因果関係及びその発症原因と結果としての疾病との間の因果関係が必要であり、業務が発症原因の形成に、また、その発症原因が疾病形成にそれぞれ相対的に有力な原因となったことが医学的に認められることを要するところ、新認定基準は、現在の医学的知見により、業務が疾病の発症に相対的に有力な原因であると認められるには、一定の時間的に明確とされる業務上の過重負荷によって生じたものでなければならないとしているのであって、第一に発症に最も密接な関連を有する発症直前の業務、次に発症一週間以内の業務について過重性を判断し、それ以前の業務については付加的要件として考慮するに留めているが、喜久男の死亡については、以下のようにいずれについても日常業務に比較して特に過重な業務に就労した事実は存しない。また、喜久男の死因が脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血であるとしても、その発症原因は、以下のように医学的には不明であるといわざるを得ず、この点からも業務との因果関係はないというべきである。

1 喜久男の超過勤務は、ノルマを課されて上司の業務命令で行ったものではなく、同人の研究熱心な性格と実質的に生活給となっている超過勤務手当を取得する目的とによる裁量的労働である。

また、喜久男が基板を自宅に持ちかえって仕事をしたとしても、それは業務命令に基づくものではなく、個人的な勉強のためである。

2 喜久男の職務状況は、以下のようなものであり、特に過重な精神的負荷を与える性質のものではなかった。

(一) 毛賀工場は、三菱電機長野工場からプリント配線板と挿入部品の送付を受け、これを手差ししてハンダ付けするという単純軽作業が中心の二〇名程度の小規模工場であり、喜久男ら三名の男子従業員が総務、管理、技術等を担当することになっていたから、各人の担当分野を截然と区別する必要はなく、業務の一応の分担は決めるが、仕事量の多寡及び各人の繁忙状況により融通し合うというのが実態であった。したがって、大規模工場のようにサポート体制をとる必要がなく、また、現に現場責任者である訴外今村文雄(以下「今村係長」という。)も訴外中川電機で目視検査及び自動検査機による検査業務に携わった経験があり、喜久男の仕事の分担は可能であった。

(二) 三菱電機長野工場との関係では、毛賀工場で検討しても原因が判明せず又は修正が困難な不良品については、遠慮なく発注者である三菱電機長野工場に送付し、原因を究明してもらい、対策を教えてもらうというシステムであったし、ロットアウトが生じても、毛賀工場としては速やかに直すべきところを直せば足り、三菱電機長野工場から何らかのペナルティーが課されることはなかったし、信菱電機でも喜久男に制裁、不利益処分をするということはなかった。

また、VTR用基板の立ち上がりの時期は不良品が多かったが、安定期には一パーセントくらいまで減少し、昭和五八年六月からのVP用基板の不良品は当初から少なかった。さらに、VPの受注量が減って構造が簡単なリモコン用基板や垂直基板が入るようになったので、不良品はより少なくなっていった。

3 原告主張の喜久男の身体状況等については、私行による寝不足等が原因と解するべきである。

4(一) 喜久男の死亡前日の昭和五八年一二月一三日の退社時刻は、午後九時四〇分であり、死亡当日の翌一四日の所定時間内に従事した業務は通常業務である。

(二) 喜久男が昭和五八年一二月一四日午後五時一〇分から従事した残業は、部品不足により出荷が遅れたものについて、部品を挿入する作業が主であり、約一時間で終了している。その後のトラックへの積込み作業は、六一歳の訴外吉地祐一(以下「吉地工場長」という。)や女子従業員の訴外小沢英子(以下「小沢」という。)でもさしたる困難なく行える程度のものであり、また、当日の気温は、この時期この時間帯の飯田市の気温としては特に寒冷ではなく、かつ、喜久男はトラックの幌内で作業しており、外気に直接さらされてはいない。

(三) 喜久男は、右積込み作業終了後、今村係長運転のトラックに同乗し、同人とともに訴外丸運工業株式会社まで基板を届け、そこからは、同人運転の同人の車両に同乗して帰社し、午後九時一〇分ころ、毛賀工場へ戻り、同人とともに工場内の整理をした後、午後九時二五分ころ、本社工場に梱包器具であるエアハンドボクサーを返却するため、自家用車を運転して毛賀工場を出発し、午後九時四〇分ころ、本社第二工場に到着し、同工場内でクリーナー収納箱の組立作業に従事していた訴外原和世(以下「原係長」という。)にエアハンドボクサーを返却した後、倒れたものである。

(四) 仮に、喜久男が、本社第二工場におけるクリーナー収納箱の組立作業の残業応援に従事したとしても、従事した時間は約二〇分間に過ぎず、また、作業内容も簡単であった。

(五) したがって、いずれにしても、喜久男の発症前日から当日までの間の業務は、日常業務に比較して、特に過重な肉体的・精神的負荷を与えるものではなかった。

5 喜久男の発症前一週間以内の勤務状況は、別紙3のとおりであるから、日常業務に比較して、特に長時間労働とはいえず、また、直近の日曜日である昭和五八年一二月一一日は出勤していないから、特に過重な肉体的・精神的負荷を与えるものではなかった。

6 喜久男の発症月である昭和五八年一二月の勤務状況を付加的に検討しても、全体としては苛酷な長時間労働とはいえず、むしろ、超過勤務は数か月前よりも全体として短時間になっている。また、二回の日曜日はいずれも出勤していない。

7(一) 脳動脈瘤破裂のはっきりした原因については、医学上の経験則とするに足りる程度に解明されたとはいえない。

(二) 脳動脈瘤破裂の危険因子としては、高血圧と動脈硬化があげられるが、喜久男の過去四年間の健康診断結果によれば、血圧は平常範囲内でほぼ一定しており、高血圧の疑いはなく、また、喜久男の年齢から見て動脈硬化も考えられない。

(三) 脳血管の自己調整機能からみて、一過性の血圧上昇は脳動脈瘤破裂の原因足り得ない。

(四) 疲労が脳動脈瘤破裂の危険因子である高血圧と動脈硬化に影響を及ぼすかどうか不明であり、現在の医学界では、疲労が脳動脈瘤破裂の原因となるとの考え方は承認されていない。

第三  争点に関する判断

一  業務起因性の判断基準について

1  相当因果関係について

労働者の死亡が労働者災害補償保険法一二条の八第一項四、五号所定の保険給付の対象となるためには、労働者が業務上死亡した場合であること、すなわち業務起因性を要し(同法一二条の八第二項、労働基準法七九条、八〇条)、労働者が疾病により死亡した場合に業務起因性があるというためには、当該労働者が当該業務に就かなかったら死亡しなかったであろうという条件関係だけではなく、業務と死亡原因たる疾病の発症原因との間及びその発症原因と死亡原因たる疾病との間にそれぞれ相当因果関係があることを必要とする。

そして、相当因果関係があるというためには、業務が疾病発症の唯一かつ直接の原因である必要はなく、労働者に疾病の基礎疾患があり、その基礎疾患も原因となって疾病を発症した場合も含まれるが、その場合には、業務が相対的に有力な原因となっていることが必要であると解される。但し、右にいう「相対的に有力」とは、健康な労働者を基準とする抽象的、一般的な比較考量によって決すべきではなく、基礎疾患を有する当該労働者を基準として具体的、個別的に判定すべきものであり、その業務の遂行が当該労働者にとって精神的、肉体的に過重な負荷となって基礎疾患を刺激し、その自然的経過を越えて急速に増悪させて疾病発症の時期を早めた場合なども業務が相対的に有力な原因となったものとして、相当因果関係を肯定するのが相当である。

2  被告が依拠する新認定基準は、専門医師で構成された専門家会議の検討結果に基づいて策定されたものであり(乙六四)、それなりに尊重されるべきであるが、これを本件について機械的、形式的に適用することは避けなければならない。なぜなら、新認定基準は、業務上外認定処分を所管する行政庁が処分を行う下部行政機関に対して運用の基準を示した通達であって、本件訴訟のような業務外認定処分取消訴訟における業務起因性の判断について裁判所を拘束するものではないからである。

すなわち、新認定基準は、脳血管疾患及び虚血性心疾患等について、これらの疾患が労働基準法施行規則三五条、同別表第一の二第九号所定の業務に起因することの明らかな疾病であると認定するためには、発症直前から前日までの間の業務が特に過重であること又は発症前一週間以内に過重な業務が継続していることを要し、発症前一週間以前の業務については発症前一週間以内の業務の過重性の評価にあたって付加的要因として考慮するにとどめることとしているが、右は、行政通達として行政の事務促進と全国斉一な明確かつ妥当な認定の確保を図り、労災補償保険給付申請者の立証責任を軽減するための簡易な基準であるから、行政処分の局面で右基準に該当する場合にはそれ以上の立証なしに業務上認定が受けられることは当然としても、発症前一週間以前以内の線引きは、医学的根拠というよりは、むしろ行政通達としての明確性の要請によるものと考えられるから、業務外認定処分取消訴訟の場においては、医学的に未解明な部分の多い脳血管疾患及び虚血性心疾患等について、右基準に拘泥することなく、基準にない事由と労働者の死亡との間の相当因果関係が認定されることは十分あり得るものと考えられる。

なお、本件不支給決定及び審査請求棄却決定の時点では旧認定基準により、再審査請求棄却裁決の時点では新認定基準により各決定ないし裁決が行われたものである(当事者間に争いのない事実5の経過、乙六一、六三)が、新旧認定基準の法的性格及び医学的観点は同旨のものであると認められる(乙六四)から、認定基準の変更は右結論を左右するものではない。

3  なお、業務と死亡との間の相当因果関係の判断は、通常人が疑いを差し挾まない程度の真実の確信を持ちうるものであることを必要とするから、これが医学的知見に全く反するものであってはならないことは明らかである。しかしながら、厳格に医学的な因果関係の証明責任を原告に負わせることは、もともと未解明な部分の多い疾病について、完全に解明されたレベルにおいての自然的因果関係の存在というほとんど不可能な立証を強いる結果となり、労働者の業務上の事由による死亡等につき公正な保護をするために保険給付を行うことを目的として制定された労働者災害補償保険法の趣旨に照らして相当とはいえない。のみならず、労災補償制度との関係で要求される因果関係は、医学的判断そのものではなく、法的評価としての因果関係であるから、医学的知見が対立し、厳密な医学的判断が困難であっても、所与の現代医学の枠組みの中で基礎疾患の程度、業務内容、就労状況、当該労働者の健康状態等を総合的に検討して業務が相対的に有力な原因となって死亡原因たる疾病を発症させた蓋然性が高いと認められるときは、法的評価としての相当因果関係があるというべきである。

二  喜久男の業務内容について

1  信菱電機は、三菱電機の協力工場として設立され(甲一)、取引先は三菱電機のみである(証人今村文雄)。

毛賀工場においては、昭和五六年九月ころから三菱電機長野工場の発注によるプリント基板の組立を開始し(乙二一、証人吉地祐一)、当初から昭和五八年五月までの間は専らVTR用基板を、同年六月からはこれに加えてVP用基板、電源用垂直基板及びリモコン用基板も生産するようになった(甲三六、乙七一)。

昭和五七年一〇月以降の基板の生産数(三菱電機への納入計上数)は、基板の機種及び時期により一定せず、専らVTR用基板を生産した期間では月産四一六八台から九二二二台、それ以降では月産四一三三台から一万四五六〇台と開きがある(甲三六)。

毛賀工場での作業内容は、三菱電機長野工場から有償購入したプリント配線板(導体パターンを固着し、必要な穴を開けた、電子部品等を搭載する前の絶縁板。既に二〇〇点余りの小さい部品が機械挿入済みのもの。)に同じく有償購入した一七〇点から二五〇点余りの電子部品等をラウンドベルトコンベアの組立ラインに就いた作業員が手作業で挿入し、目視で欠品や逆極性の検査(自挿検査という。)を行い、自動ハンダ槽でハンダ付け及び電子部品等のリード線カットを行い、さらに目視で欠品や逆極性の検査(表検査という。)及びハンダ付けの不良や電子部品等のリード線カットの不良の検査及び修正(裏検査という。)を行い、最後に自動検査機で機能検査を行ってから良品を梱包、発送するというものである(甲二〇、証人今村文雄、同吉地祐一、同太田孝子)。信菱電機では、検査の正確性を高め、検査担当者の負担を軽減する実装検査のためのビデオカメラを利用した検査機やハンダ付け後の部品ごとの良否を検査するインサーキットテストのためのコンタクトプローブを利用した検査機は備えられていなかった。

2  毛賀工場の基板組立部門の人員は、昭和五六年九月ころは男性従業員五名と女子従業員二五名であったが、その後人員削減が進み、昭和五七年ころから男性従業員は吉地工場長、今村係長、喜久男の三名となり、昭和五八年一二月ころには女子従業員一五名を合わせて一八名となった(乙二一、証人今村文雄、同吉地祐一)。

このような規模の工場であったから、吉地工場長、今村係長、喜久男の職務分担は必ずしも截然と区分されていなかったし、区分することも不可能であったが、概ね吉地工場長が総務、渉外及び組立ラインの管理(挿入部品の管理、プリント配線板のラインへの投入等)、今村係長が出荷及び自動ハンダ槽の管理、喜久男が品質管理の各業務を担っていた(乙二一、証人今村文雄、同吉地祐一)。

喜久男の品質管理業務の内容は、具体的には、目視検査及び自動検査機による検査ラインにおいて、不良品が多いためにラインが滞ったときに応援したり、女性従業員では分からないときに代わって検査し(証人太田孝子)、また、自動検査機で機能不良となった製品について、目視検査の見落としや修正の不良を目視で再チェックし、目視では不良原因が分からないときは回路図を照合しながら自動検査機で様々なシュミレーションを行って不良箇所ないし不良部品を特定し、修正を行う(証人今村文雄)というものである。

なお、吉地工場長、今村係長、喜久男は、それぞれ仕事量の多寡及び繁忙状況により分担を融通し合うことになってはいたが、実際には、吉地工場長は基板関係の仕事は初めてであり、技術上の知識も当初は全くなかったから、検査ラインの欠勤代行を行うことはほとんどなく(証人吉地祐一、同太田孝子)、今村係長も訴外中川電機で目視検査及び自動検査機の業務に携わった経験はあるものの、目視検査の欠勤代行を行う程度で、自動検査機の欠勤代行に就くことはほとんどなかった(証人今村文雄、同太田孝子)。かえって、喜久男は、死亡当日のように製品積込作業を行ったり、組立ラインの適正配置や作業指導票の作成等を今村係長と協力して行うなど、他の分担業務全般に携わることが多かった(乙二五、証人今村文雄)。

また、喜久男は、三菱電機長野工場に納品したプリント基板に不良品があり、同工場において修正を急ぐときには、連絡を受けて同工場まで製品運送業者のトラックに便乗し又は自家用車を運転し、出張して修正作業を行ったが、このような長野出張は、昭和五八年五月一六日以降死亡までの間に一〇回あった(甲九、証人今村文雄、同吉地祐一、同熊谷八代偉)。このほか、喜久男は、昭和五八年一一月二九日午後一一時一〇分から翌三〇日午前八時三〇分まで本社工場で残業応援に従事した(乙五九の一)。

3  以上によれば、喜久男の業務は、役職こそ付いていないが、品質管理業務の責任者としての業務と見て差し支えないものであり、特に目視では原因がわからない不良品の原因究明及び修正については毛賀工場内では代替性のない唯一の技術者であったということができる(右事実は、昭和五七年五月下旬ころ、喜久男が足を捻挫したときにも通院しながら今村係長の送迎により出勤したこと〔乙一七、五九の一、原告本人〕及び喜久男の死亡後に今村係長や毛賀工場成型部門の大平某が喜久男の業務を引き継いだが全体としてうまく行かなかったこと〔証人太田孝子〕からも窺える。)。

4  喜久男の業務内容による精神的負荷の程度について

喜久男の業務は、それ自体の肉体的負荷は少なく、指導、検査、修正等の作業内容は、一般的には軽作業に分類されるものであり、指導についても、喜久男と組立・検査ラインの女子従業員との人間関係も良好であったことが弁論の全趣旨から窺われるから、これによる精神的負荷もさほど問題にならないと考えられる。

しかしながら、検査、修正等は、目視による認識と判断という精神的作用が重要な要素となる作業であり、これを行うにあたっては精神的集中を要するばかりでなく、以下のような事情から、品質管理業務の責任者である喜久男は、重大な責任を負っていたものと解するのが相当である。

(一) 既に認定したとおり、毛賀工場は、三菱電機から有償購入したプリント配線板と電子部品等を組立て、工賃を得ることを業務としていたから、不良品を納入すると工賃を得られないばかりか、有償購入した部品等の分だけ欠損を生ずる結果となる(証人吉地祐一)。また、プリント配線板は納入予定数だけ、購入する部品等はわずかな予備しかなかった(証人今村文雄)のであるから、不良品を修正できなければ受注数の生産が確保できない結果となる可能性があった。

(二) 一般に、部品数の多い基板の生産においては、後工程に進むほど不良箇所の発見とその修正に要する費用が増加する(甲二〇)のであり、これは基板を製品の部品の一とする三菱電機長野工場でも同様の関係になるから、生産費用の増加を防ぐため、毛賀工場に対し、厳格な検査を求めていたものと推認される。実際にも、三菱電機長野工場の検収担当者が交代してからは、ロットアウトに際し、「もっと良く見て下さい。」等のはり紙が付されてきた(証人太田孝子)。

(三) プリント基板の不良は、組立、ハンダ付けの各工程以外に、購入した電子部品自体の不良によっても生じ得る(証人今村文雄)。この不良部品の特定は、目視検査で行うことは不可能であるから、部品ごとの良否を検査するインサーキットテストのためのコンタクトブローブを利用した検査機によるか、最終段階で自動検査機による様々なシュミレーションを行うしかないと考えられるが、毛賀工場では後者によっていた。

すなわち、高価な検査機械を買い入れるよりは、技術者の知識と経験に依存することが選択されていたのであり、喜久男の検査と修正は、三菱電機長野工場からのマニュアルに従って行えば足りた旨の証言(証人今村文雄)が存するが、実際はマニュアル外の事態に対する知識と経験が重要であったといえる。

以上に加えて、喜久男が信菱電機に入社する際に三菱電機中津川製作所の工作部長の紹介があり(乙一五)、喜久男は、三菱電機に対していわば気を使う立場にあったと考えられることを考慮すると、弱冠二六歳の中途入社社員である喜久男にとって、代替性のない品質管理業務の責任者としての業務は、過重な精神的負荷をもたらしたものと認めるのが相当である。

右の点について、被告は、原因不明又は修正困難な不良品については、発注者である三菱電機長野工場に送付して原因を究明してもらい、対策を教えてもらうシステムであり、不良品が返品されても不利益処分がなされることはなかった旨主張し、これに沿う証言(証人今村文雄、同吉地祐一)が存する。

しかしながら、プリント基板の生産立ち上げの時期はともかく、安定期に右のようなシステムがとられていたとは考えにくいばかりでなく、右のようなシステムは、ロットアウトという厳しい取扱いと相容れないものであり、右証言は信用できない。また、ロットアウトに対し何らかの不利益処分がなされることはなかった(これは吉地工場長、今村係長も同様である。)ことが認められるが、不良品は、一定の確率で生じ得るものである以上当然の措置であり、かつ、ロットアウトの製品全部について改めて検査と修正をやり直すことになると、毛賀工場の生産計画に支障を来すことになるから、これに対する精神的負荷が小さいものであったとはいえない。

三  喜久男の勤務状況について

1  信菱電機の所定労働時間が一日七時間四五分(就業時間である午前八時二五分から午後五時までの八時間三五分から休憩時間合計五〇分を除いた時間)であり、休日を週一回日曜日とする週休一日制であることは当事者間に争いがない。

また、信菱電機の就業規則(甲三)上は、右のほか、国民の祝祭日、年末年始(一二月三一日から一月四日まで)及び盆(八月一四日から八月一六日まで)が休暇とされているが、昭和五八年九月二三日、同年一一月二三日の二回の祝日は出勤日扱いとされており(乙四六)、会社全体として正月や盆に休みを多くとるため祝日に出勤する場合があった(証人吉地祐一)。

2  喜久男の昭和五六年九月一六日から昭和五八年一二月一四日までの所定外労働時間、総労働時間、休日出勤日数及び深夜残業時間が別紙1のとおりであることは当事者間に争いがなく(なお、右争いのない労働時間は、三〇分未満は切捨てられている〔乙五九の一〕。)、これと昭和五九年度版労働白書(甲三七)による同時期の労働省「毎月勤労統計調査」に基づく製造業平均の労働者の所定外労働時間、平均総労働時間とを比較した結果は、別紙2のとおりである。

また、信菱電機が飯田労働基準監督署に届け出ている三六協定の内容(甲四の一、二)と争いのない喜久男の所定外労働時間を合わせると、喜久男が昭和五六年に三回、昭和五七年に四回、それぞれ三六協定違反の所定外労働を行ったことになる(なお、毛賀工場においては、女子従業員に対し、労働基準法六一条〔当時〕、就業規則三七条〔甲三〕の制限以上の超過勤務をさせ、タイムカードに打刻させずに時間外手当てを給与と別途封筒に入れて支給する〔甲一三の一ないし七、一四、一五の一、二、証人太田孝子〕ことも行われており、残業に関する管理は相当にルーズであったと認められる。)。

3  右争いのない喜久男の労働時間を、さらに特徴のある時期により整理すると、別紙4のとおりである。

4  喜久男は、昭和五八年五月一六日から同年一二月一四日までの間に、休日出勤の結果、同年五月一六日から同年六月四日まで二〇日間、同月一三日から同年七月二日まで二〇日間、同月四日から八月六日まで三四日間、同月二九日から同年九月二九日まで三二日間、同年一一月四日から同月一九日まで一六日間、同月二一日から同年一二月三日まで一三日間、それぞれ連続出勤しており、かつ、同年八月一三日ないし一五日の盆休暇と同年一〇月九日及び一〇日の連休を除いて二日以上連続して休みをとったことがなく、しかも、その間午前八時台前に出勤し(中には午前四時台、五時台の出勤もある。)、午後一〇時を過ぎて(中には午前二時台、三時台の退社もある。)退社した日が三七日間ある(甲一〇、乙五九の一)。但し、休日出勤日には、平日と異なり、短時間勤務又は出勤時刻を遅らせる変則勤務を行うこともあった(甲一〇、乙五九の一)。

5  また、喜久男は、自宅にプリント基板を持ち帰り、部品を挿入する作業をしたこともあった(証人熊谷八代偉)が、時期、回数、一回に持ち帰った数量等は明らかではない。

6  喜久男の勤務状況による肉体的負荷の程度について

(一) 作業内容自体は軽作業であっても、精神的負荷の大きな業務を長時間継続すれば肉体的負荷も大きくなることは明らかである。

(二) 喜久男の勤務状況の製造業平均との比較結果は別紙2のとおりであり、所定外労働時間が製造業平均の約五倍から九倍、総労働時間が約1.5倍から約1.9倍というのは、製造業平均の所定内労働時間が少ない年でも一日七時間半以上である(甲三七)ことを考慮すると、非常に長時間の労働を行っていたものといわざるを得ない。

(三) また、休日出勤が多く、その結果連続出勤日数も多くなっている(前記4)こと、深夜残業時間も多いことは、肉体的負荷による疲労を回復するための十分な休息をとることができなかったことに帰着するから、長時間労働、連続出勤、深夜残業時間の継続はますます肉体的負荷を過重にさせる要因となったものと解される。

(四) もっとも、喜久男の勤務状況に時期による変動があることは前記3で整理したとおりである。

これによれば、最も長時間労働が継続したのは昭和五六年一〇月ないし同年一二月(毛賀工場でVTR用基板の生産を始めた当初)であり、次いで昭和五七年一月ないし同年三月(VTR用基板生産の立ち上げ期)、昭和五八年六月ないし同年九月(VP用基板生産の立ち上げ期)であり、喜久男の死亡三か月前に当たる昭和五八年一〇月ないし同年一二月(VP用基板生産の安定期)は、昭和五五年七月ないし昭和五六年九月(本社工場在勤中)及び昭和五七年一一月ないし昭和五八年五月(VTR用基板生産の安定期のうち後半七か月)とほぼ同じ時間数であり、各時期の中では労働時間数の少ない部類である。

しかしながら、右労働時間数の少ない時期においても、製造業平均と比較すると、なお所定外労働時間において約四倍から五倍、総労働時間において約1.5倍であり、相当な長時間労働であるといえる。これらが喜久男の本社工場在勤中を含めて生産安定期であることを考慮すると、信菱電機においては、この程度の長時間労働が常態化しており、大幅な機種変更等による生産立ち上げの時期にはさらに著しい長時間労働が行われていたものと解するのが相当である。

なお、新認定基準は、日常業務と比較した特定時期の業務の過重性を重視するが、本件のように同業種の平均的労働者と比較しても相当な長時間労働が常態化している場合には、日常業務それ自体が過重なものというべきであり、業務が最も過重な時期と比較して労働時間が軽減したから過重でなくなったとはいえないと解すべきである。

(五) ところで、毛賀工場においては、今村係長も喜久男にほとんど劣らない長時間労働を行っており、特に昭和五八年五、六月は所定外労働時間、総労働時間とも喜久男を上回っている(甲一〇)。

しかしながら、既に判断したとおり、業務の過重性は、基礎疾患を有する当該労働者を基準として具体的、個別的に判定すべきものであるから、職場の他の従業員の中により長時間労働を行った者が存するという事実のみによって業務が過重ではないとはいえない。

7  以上のような喜久男の長時間労働は、喜久男の業務内容に照らして必然的なものであったと認めるのが相当である。すなわち、

(一) 三菱電機からの納期、納入数の要求は、厳格なものであったと考えられる(これは、喜久男の死亡当日の毛賀工場における残業及び本社工場における残業の各内容からも窺うことができる。)。

実際には、特定機種の基板の納期、納入数と毛賀工場の生産能力に応じて数日ずつに分けて生産計画が組まれており、納期遅れについては出荷担当者の今村係長が三菱電機長野工場と交渉した(証人今村文雄)が、納期遅れは、三菱電機長野工場の生産ライン停止や残業をもたらすものであるから、毛賀工場での残業で可能な限り間に合わせることが求められていたと推認するのが相当であり、したがって、毛賀工場の生産計画に支障のないよう、不良品の修正や翌日の準備のための残業が必要であったと考えられる。

(二) 基板の不良品の発生数については、生産立ち上げ期には一〇パーセントから二〇パーセントであったが安定期には一パーセントから三パーセント、日によっては発生しない日もあったとの証言(証人吉地祐一)が存するが、右の数字は組立ラインにおける欠品等の発生数であり、ハンダ付けにより生ずるものは別である(証人今村文雄)。そして、一般に基板の不良のほとんどはハンダ付け不良又はリード線カット不良に起因するものである(甲七の不良項目四六項目中、組立工程に起因するものは五項目程であるのに対しハンダ付け不良及びリード線カット不良に起因するものは四〇項目近い。)。

右によれば、基板のほとんどは修正を要するものであり、裏検査による修正を経たものについても自動検査機で不良品としてはね出された基板が次々と積み上げられていったとの証言(証人太田孝子)は十分信用できる。したがって、不良品の発生数は相当大きなものであったと推認するのが相当である。

(三) 良品として納入された基板の中からも三菱電機長野工場の検収で不良品が発見される(原因は自動検査機担当者の見落としか喜久男による修正不良が考えられる。)ことがあり、これによりロットアウトが生ずることは既に認定したとおりであるが、その数量は、昭和五八年一一月には合計五回約二五〇〇個、同年一二月には一回一四三個である(甲三四の一ないし一六、三五の一ないし一一)。

ロットアウトとなった場合、三菱電機長野工場が修正を急ぐときは、喜久男が長野に出張することになり、そうでなくとも毛賀工場で検査と修正のやり直しをすることになるが、そうするといずれの場合でも毛賀工場の生産計画に支障をきたす(喜久男の出張中は、不良品の最終検査、修正ができない。)ことになる。

(四) 以上に加えて、毛賀工場の女子従業員は若い既婚女性が多く、家事都合等による有給休暇、早退、欠勤が多かった(乙四六、証人太田孝子)から、喜久男が欠勤代行に入ることが多かったと推認されること、また、そうでなくても所定時間内は検査の指導に時間をとられることが多かった(証人太田孝子)ことから、結局、喜久男が自動検査機ではね出された相当多数の不良品の不良箇所の特定及び修正を深夜残業や休日出勤等により行わなければならなかったものと推認することができ、喜久男の業務は所定時間内に消化できたはずであって、必然性がないのに結果的に何となく残業してしまった旨の証言(証人今村文雄)は信用できない。

以上に対し、被告は、喜久男の残業や休日出勤はノルマを課されて上司の業務命令で行ったものではなく、喜久男の研究熱心と超過勤務手当取得を目的とする裁量的労働である旨主張し、これに沿う証言(証人今村文雄)が存する。

しかしながら、裁量的労働であるといえるためには、当該労働者に所用があったり、疲労を感じたときは超過勤務を行わない自由がなければならないところ、喜久男の残業や休日出勤が必然的なものであったことは既に認定したとおりであり、また、そうである以上、個々の残業や休日出勤についていちいち業務命令が発せられておらず、喜久男が研究熱心な性格であり、かつ、喜久男が「残業しなければ生活が成り立たない。」と言っていたこと、吉地工場長や今村係長がそれぞれ早く帰るように、又は休日出勤はしないように指示したことがあることなどが認められる(乙一八、証人今村文雄、同吉地祐一)けれども、喜久男は、自己の業務に必要な範囲の超過勤務を主として自己の責任感に基づいて行っていたもの解するのが相当であり、被告の主張は失当である。

四  喜久男の健康状況、嗜好等

1  喜久男の過去における傷病の受診歴としては、捻挫治療、歯科治療、耳垢栓塞治療、急性胃腸カタル治療があるのみであり(乙九)、本件疾病に関連した疾病は見られない。

2  喜久男の信菱電機における健康診断の結果

血圧は、昭和五五年八月五日には七六mmHg〜一四二mmHg、昭和五六年八月七日には六二mmHg〜一四〇mmHg、昭和五七年八月六日には八二mmHg〜一三八mmHg、昭和五八年八月一一日には七六mmHg〜一三八mmHgであり(乙五六)、やや収縮期血圧が高めであるが、正常範囲内で一定している。また、血色素量と全血比重が正常値の上限を若干上回っているが、他に異常な所見はない(乙五六、五七)。

3  喜久男の日常生活から見られる健康状態の変化

(一) 喜久男は、高校時代から野球をやるスポーツ青年であり、昭和五七年春ころは週一、二回は早朝野球に参加していた(証人熊谷八代偉)。

また、無口な方であるが、性格が温厚で芯が強く、明るい頑張り屋であり、また、人なつこく、誰とでも隔たりなく接し、他人の悪口や愚痴を言わない好青年であった(証人今村文雄、同吉地祐一、同太田孝子、同熊谷八代偉)。

昭和五七年までは、朝食は母親と一緒に食べ、帰宅が遅くなっても夕食は帰ってすぐに食べ、風呂も毎日入っていた(証人熊谷八代偉)。

(二) 昭和五八年に入ると、朝早く起きることができなくなり、早朝野球にも参加できなくなった。夏ころからは早朝野球の審判を頼まれても断るようになった(証人熊谷八代偉)。

同年六、七月ころからは、朝なかなか起きられなくなり、起こしに行っても起きないため、遅刻する日や、朝食を取らずに出社する日がでてきた(証人熊谷八代偉)。

(三) 昭和五八年秋ころから、遅く帰宅したときは風呂に入らず、夕食も少しつついたり、ビールを飲んだだけで着替えもせずにうたた寝してしまうようになった(証人熊谷八代偉)。

母親が早く帰ってきて休むように言っても、親に反抗したことがなかったのに「やらなきゃならないので仕方がない。」と怒鳴って言うようになった(証人熊谷八代偉)。

もともと無口だが、普通の会話もしなくなった(証人熊谷八代偉)。

(四) 昭和五八年一一、一二月ころになると、職場で怒ったことがないのに太田が部品を取ってくれるように頼むと「俺はコンピューターじゃないぞ。」と大きな声で怒鳴りつけたり、昼休みには休憩を返上して仕事をしたり、同僚とキャッチボールやバレーボールをしたりしていたのが、一一月終わりころからは段ボールの上に横になって昼寝をすることが目につくようになった(証人太田孝子)。

(五) 昭和五八年一二月一一日の日曜日にスーツを新調するため母親と飯田市に出かけたとき、喜久男の顔の皮膚がカサカサになって血の気がなく青白い顔をしており、母親が代金を支払う僅かな間に座って身体が横になるように壁にもたれて眠ってしまった(証人熊谷八代偉)。

4  喜久男の嗜好

喜久男は食事の好き嫌いはなく(証人熊谷八代偉)、コーヒーは好きで、職場で一日一〇杯程度飲んでいた(証人今村文雄)。

酒はぐい飲み型で、量は普通、飲むとすぐに寝てしまうほうであり(証人今村文雄)、家では主に毎晩ビール一本程度を飲んでいた(証人熊谷八代偉)。朝から酒の匂いがしていたことがあった(乙二一、二四、二七、証人太田孝子)が、時期、回数については明らかではない。

煙草は吸うが、一日二〇本程度であった(乙九)。

5  その他の喜久男の私生活上の事情

(一) 喜久男は、毛賀工場の女子従業員である訴外太田孝子(以下「太田」という。)から訴外花井京子(以下「花井」という。)を紹介され、昭和五八年一〇月八日見合いをし、婚約して(昭和五九年五月挙式予定。)、同年一一月六日に「スルメ入れ」の儀式を行った(証人太田孝子、同熊谷八代偉)。「スルメ入れ」の儀式は午前中であったが、喜久男は、その日午後から休日出勤をしている(甲一〇)。

(二) 喜久男は、退社後、花井とデートしても一時間くらいで毛賀工場に戻り、また残業することがあった(証人太田孝子)。

(三) 喜久男は、昭和五八年一二月四日の日曜日は、自宅で仲人、花井、花井の両親、喜久男の両親らと挙式の打合せを行い(乙九、原資料は原告のメモによる。)、同年一二月一八日の日曜日に花井宅に招待されていたので、前週の同年一二月一一日の日曜日は、スーツを新調するため、母親と飯田市に買物に出かけた(証人熊谷八代偉)。

五  発症当日の経緯

1  昭和五八年一二月一四日、喜久男が午後五時までの通常勤務に従事した後、午後八時三五分ころまで基板の不足部品の挿入及び不良品検査、午後八時三五分ころから午後八時五〇分ころまでトラックへの製品積込作業に従事したことは、当事者間に争いがない。

なお、右基板の不足部品の挿入は、クランパーという部品の不足によるものであり、小沢が本社工場まで右部品を取りに行った後、小沢、今村係長及び喜久男で挿入作業を行ったものである(乙二四、証人今村文雄)。また、トラックへの製品積込作業は、喜久男が幌付トラックの荷台に立ち、今村係長が下から手渡す製品入り段ボール箱を受け取り、荷台に積み上げていくものであり、製品入り段ボール箱の重量は、一個一〇キログラム弱、この日に積み込んだのは段ボール箱三二箱、袋詰め二袋であった(乙一一、三五、三五添付の仮受領書の写)。当時の気象条件は、外気温が摂氏2.5度、風力3.8メートルであった(乙三八)。

2  この日、本社第二工場では、納期が迫っていた三菱電機群馬製作所発注にかかるクリーナー収納箱の組立作業の残業を行うことになっており、通常は、残業に対する応援は、品質管理、事務、工程等のいわゆる間接部門の従業員に依頼するのが通常であった(証人原和世)。

しかし、この日の残業応援は、本社第四工場でテレビのキャビネットの塗装、組立等を担当している訴外木下浩美(以下「木下浩美」という。)に対しても依頼されており、午後五時過ぎに木下浩美は三菱電機京都製作所の発注にかかるサービス品のテレビのキャビネット二台の組立を突然指示されたため、工程担当の訴外木下泰樹(以下「木下泰樹」という。)に交替要員の確保を求めたところ、午後七時一〇分過ぎの食事休憩になってから、午後九時ころから喜久男が交替に入る旨の連絡があった。そして、午後九時一五分ころ、本社第二工場に喜久男が到着し、喜久男が入口付近で「おーい、どこをやるんだ。」と呼びかけたので、木下浩美が「ここ、替わって下さい。」と言い、喜久男に数十秒間、クリーナー収納箱にバネを入れる作業のやり方を見てもらい、約五分間、木下浩美が喜久男の作業を補助し、喜久男が慣れたところで交替した(証人木下浩美)。

3  喜久男が発症したのは、右作業に入って約三〇分後の午後九時四五分ころであり、発症時の経緯は当事者間に争いがない事実3記載のとおりである。

4  被告の主張について

(一) 被告は、喜久男が製品積込作業終了後、今村係長運転のトラックに同乗して訴外丸運工業株式会社まで往復した旨主張し、これに沿う証言(証人今村文雄)及び災害調査復命書(乙一三)が存するが、右丸運工業の所在場所は、本社工場や喜久男の自宅と反対方向であり(甲三八)、今村係長は、単にトラックを丸運工業まで運転して自分の乗用車に乗り換えて毛賀工場へ戻るだけであった(証人今村文雄)のであるから、喜久男がトラックに同乗する必然性は全くないものと認められ、また、「今村係長が運転し一人ではさみしいと被災者が同乗して」との災害調査復命書の記載も不自然であるから、この点に関する証人今村文雄の証言及び災害調査復命書の記載は信用できない。

(二) 被告は、喜久男が本社工場に赴いたのはエアハンドボクサーを返却するためであり、喜久男は残業応援には従事していなかった旨主張し、これに沿う証言(証人原和世、同木下泰樹)が存するが、証人原和世の証言は、喜久男が本社第二工場に到着した時刻及び喜久男が倒れた時刻について被告主張と符合しないばかりでなく、毛賀工場では、段ボール箱は組立ずみであり、蓋をすることもなかった(証人太田孝子)のであるから、エアハンドボクサーを本社工場から借りて使う仕事があったかどうか疑問であり、したがって喜久男がこれを返却しに来るというのも疑わしい点があり、また、仮に喜久男がこれを返却しに来たとしても、倒れた場所である組立ライン中央付近に位置していたパテレーナ(乙一四)まで歩いて行く理由がなく、いずれにしても信用できない。

そして、証人木下泰樹の証言は、要するに喜久男及び木下浩美に残業応援を依頼した記憶がなく、信菱電機の指揮命令系統上、同証人が依頼しなければ残業命令が出るわけがないとするものであるが、既に認定した喜久男の三六協定違反や女子従業員の違法残業に見られるように、信菱電機では、残業の管理については相当ルーズであったこと(したがって、木下浩美が原係長に残業要員の交替を告げなかったことも十分にあり得ることである。)、昭和五八年一一月二九日の深夜の応援残業については、訴外片桐芳和が責任者を通じずに直接喜久男に依頼して行っている事例があること(乙三六)、証人木下浩美の証言は、テレビキャビネットの返品について計上通知書の記載(乙六七ないし六九)と矛盾しないばかりでなく、右2認定のように具体的で迫真性があることなどに照らして、証人木下泰樹の証言は信用できない。

なお、喜久男はタイムカードを打刻せずに毛賀工場を出ているが、このような扱いは長野出張のときばかりでなく、本社の残業応援(例えば昭和五八年一一月二九日)にも同様であり、かつ、喜久男の昭和五八年一二月一四日の欄は、二一時四〇分まで残業した旨の手書きの記載がある(乙五九の一)のであるから、喜久男がエアハンドボクサーを返却するため本社工場へ行ったことの裏付けにはならず、かえって、信菱電機が、喜久男の応援残業の事実を認識してこれに沿う取扱いをしたことが窺われる。

(三) また、被告は、喜久男が本社第二工場で応援残業に従事していたことを訴外熊谷伊保子から聞いた旨の証人太田孝子の証言について、右証言が出てきたのが再主尋問のときであり、本件に関する長野労働基準局係官の事情聴取の際にも太田がこのことを全く述べていないのは不自然であると主張し、右証言の反対証拠(乙七四、七五)が存するが、証人太田孝子の証言内容は伝聞に過ぎず、右証言の信用性は証人木下浩美の証言の信用性自体とは関係しないものである。

(四) 以上、この点に関する被告の主張はいずれも理由がなく、喜久男が発症したのは、本社第二工場での応援残業に従事していたときであると認めるのが相当である。

六  喜久男の健康状態の変化と業務の関係

1  前記四3認定の喜久男の日常生活の変化に見られる状態について、市川英彦医師(JA長野厚生連リハビリテーションセンター鹿教湯病院院長)は、(1)疲労が短期の休業では回復せず、全身倦怠感のため月に数日は社会生活や労働ができず、自宅での休養が必要である程度、(2)過眠、興奮しやすい、軽作業での疲労がなかなか抜けない、という診断基準に該当するので慢性疲労症候群(以下「CFS」という。)疑診例であるとする(甲一八、一八の資料2、3、証人市川英彦)。

ところで、市川医師の意見では、働き過ぎや疲労の蓄積がCFSの原因になり得ると述べているが、厚生省のCFS研究班班長の木谷照夫大阪大学医学部教授によれば、CFSの症状そのものは、ウィルス性感染症が疑われる原因不明の疾患に罹患した者が強い持続的疲労その他の自覚症状を訴えるものをいう(乙七〇)。したがって、市川医師の意見はCFSの原因に関する限りでそのまま採用し難いが、同医師の意見は、喜久男がCFS疑診例であることから直接に業務起因性の判断を導いているのではなく、CFS診断基準を疲労の程度の尺度として用いているものと解することができる。

実際に、CFS診断基準(甲一八の資料2、3)には、除外すべき疾患例や、インフルエンザ類似の微熱、咽頭痛、リンパ節腫張等の基準の外、疲労と回復日数の関係、社会生活や労働の可能性との関係、筋力低下、筋肉痛ないし不快感、全身倦怠感、精神神経症状、睡眠異常等、一般に疲労を生じた場合の自覚症状と考えられる基準が掲げられており、これらに数多く該当し、回復するのに時間がかかるという状態であれば、疲労の程度が大きいものということができるから、CFS診断基準を疲労の程度の尺度として用いることは十分意味のあることといえる。

2  なお、前記喜久男の日常生活の変化に見られる状態は、いずれも家庭及び職場での第三者の観察によるものであり、時期や程度について正確性を欠くきらいがないではないが、この点は、仮に患者本人に問診したとしても一定の不正確さは避けられないものと解され、また、疲労の自覚症状自体が個人差が大きく、かつ、あいまいな要素を含んでいるものであるから、むしろ、右のような喜久男の健康状態の観察結果は、疲労の程度の判断の重要な資料になるものと解するのが相当である。

市川医師の意見によれば、死亡直前の喜久男の健康状態は、疲労の極みにあり、最低三か月は十分な休養をとり、その間の検査と経過観察を必要とする程度であった(証人市川英彦)。

3  ところで、右のような喜久男の著しい疲労の原因については、前記認定のとおり、喜久男の業務内容の精神的負荷が過重であったこと、非常に長時間労働を行っており、肉体的負荷も過重であったこと、とりわけ喜久男の健康状態の変化が昭和五八年六月ころから明らかになっており、VP用基板生産の立ち上げ期に符合していること、長時間労働であるために労働時間と日常生活を除くとストレスを受ける余裕がなかったといえること(証人市川英彦)、反面、他に喜久男に著しい疲労を生じさせる原因が見当たらないことなどを合わせて考慮すると、喜久男の過重な業務が最も有力な原因であると解するのが相当である。

この点について被告は、喜久男が朝から酒の匂いをさせていたことがあること(前記四4)をとらえて、喜久男の飲酒その他の私行が原因である可能性があると指摘するが、喜久男の嗜好について認定したとおり、特に酒好きと評価できる程度ではなかったのであるから、過重な業務以外に、これを上回る有力な原因が存するとは認められない。

なお、喜久男の私生活上の事情として結婚を控えていたこと(前記四5)があるが、右は昭和五八年一〇月以降に生じた事由であるから、右の著しい疲労の原因としては有力ではなく、右事情のために数少ない休日に十分な休息をとれなかったという点で、疲労を助長した可能性があるに過ぎない。

七  本件疾病に関する医学的所見について

1  喜久男の直接死因の原因疾病である脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血の病像に関する一致した見解

(一) くも膜下出血は、脳の頭蓋内のくも膜下腔に血液が流出した状態を指し、その原因としては、脳動脈瘤破裂(脳表面を走る動脈の分岐部等にできた動脈瘤が破裂して出血する疾患)が七五パーセントといわれ、大部分を占める(乙七二の資料1)。

(二) 脳動脈瘤が形成される原因としては、一般に脳動脈分岐部中膜や弾力線維の局所的欠損等の先天的要因と高血圧その他の後天的要因とが考えられる。先天的要因は、要するに右欠損が動脈壁に脆弱部分を作り、動脈圧が加わって内膜が外方に突出して嚢状の壁の薄い瘤を形成するというものであるが、現在では、これが加齢等により発達する後天的要因も関与するという説が有力である(乙七二、七二の資料1、証人市川英彦)。

若年者では、先天的要因によるものと考えられる(乙七二の資料1)。

(三) くも膜下出血の軽度のものは、発作による死亡を免れれば漸次症状が軽快する(乙七二の資料1、証人小口喜三夫)が、大出血を生じた場合は数分から数時間で急死するに至ることがあり、その頻度は一〇パーセントを越える(甲一八の資料4、証人小口喜三夫)。

(四) 脳動脈瘤は、一般には脳動脈瘤壁が血管内圧に耐えられなくなったときに破裂すると考えられており、その確実な危険因子としては、本態性高血圧症と動脈硬化が挙げられる(証人小口喜三夫)。

(五) 脳動脈瘤破裂は、睡眠時を含めあらゆる状況下で起こり得るが、身体活動に費やす時間を考慮すると、用便時の発症率が最も高く、食事、入浴、起床、洗面等の日常生活行動中がこれに次ぎ、職業としての仕事中の発症は、費やす時間から算定される予想計算値を下回る(乙七二の資料2)。

2  本件疾病の原因に関する医師の意見

(一) 市川医師の意見(甲一八)

喜久男の昭和五八年六月以降の健康状態からみて、通常の社会生活を営むことが困難になり、労働は可能であるがしばしば休息を必要とする状態であり、CFS疑診例に該当する程度であった。厳しい疲労は、ストレスとなって身体に健康障害を及ぼし、昇圧物質の分泌、自律神経失調等により、血圧上昇を来しやすい状態にあったところ、発症当日の寒い中でのトラックの積荷作業や臨時の応援残業が重なって、作業中に興奮が高まり、激しい血圧上昇を起こして脳動脈瘤が破裂し、最激症のくも膜下出血を生じた。

なお、喜久男の業務について、過重な精神的、肉体的負担があり、これが脳動脈瘤破裂の誘因であるとして、発症当日の労働により生理的限界を越えたものとする名古屋大学医学部公衆衛生学教室の榊原久孝医師の意見(乙一〇)も右と同趣旨と考えられる。

(二) 小口喜三夫医師(諏訪湖畔病院院長)の意見(乙七二)

脳血管には、体の血圧が上昇しても脳血圧を一定に保つ自已調節機能が存するから、喜久男の健康診断における実測血圧値程度では、体の血圧が上昇しても脳血管や動脈瘤に影響を与えることはない。また、喜久男の死亡一か月前、一週間前の勤務状況や仕事上のミスがないことなどから、喜久男が極度の疲労状況にあったとは考えられず、かつ、過労とストレスが直接くも膜下出血の原因となるとする信頼すべき医学論文はない。

長野労働基準局労災医員の小林滋医師の意見(乙五二)は、死因が急性心不全であることを前提とするものではあるが、喜久男の業務責任や残業時間が異常なものではなかったとする評価の点で右と共通すると考えられる。

3  脳動脈瘤破裂の発生機序について

(一) 脳動脈瘤破裂の確実な危険因子が本態性高血圧症と動脈硬化であることは既に七1(四)で認定したとおりであるが、喜久男の健康診断における実測血圧値がほぼ正常範囲内で一定していること(前記四2)、喜久男が死亡当時二六歳であること、本態性高血圧症と動脈硬化の脳動脈瘤に対する作用は長期間を要すること(証人小口喜三夫)を考慮すると、本態性高血圧症と動脈硬化は、喜久男の脳動脈瘤破裂の発生機序から除外して考えるのが相当である。

(二) 脳動脈瘤が破裂する局面では、脳動脈瘤壁が血管内圧に耐えられなくなった状況になっていると一般に考えられていることは既に七1(四)で認定したとおりである。このような局面が生ずるのは、脳動脈瘤壁が自然的経過により脆弱性を増して通常の血管内圧に耐えられなくなったときか、あるいはもともと中膜や弾力線維が欠損しているために一定の脆弱性を有する脳動脈瘤壁に対し、その生理的限界を越える程度の血圧上昇が生じたときであると考えられる。年齢を重ねるという後天的要因が関与して脳動脈瘤が発達することは前記七1(二)認定のとおりであるから、右の自然的経過という要因は常にあり得るものとして否定することはできない。しかしながら、脳動脈瘤破裂は身体活動による全身動脈血圧の上昇に起因する可能性があるとされ、実際の患者の発症時の身体状況の調査によれば、血圧の日内変動に符合して、血圧が最低となる深夜の発症が少なく、血圧が最高となる午前六時から九時、食事、入浴等の日常生活における身体活動の多い午後六時から九時において発症数が多いとされている(乙七二の資料2)ことを考慮すると、一時的な血圧上昇という要因も重要であると解するべきである。

この点について、小口医師は、脳血管には脳血圧を一定に保つ自己調節機能があるから、体の血圧が一定の範囲内であれば脳血管や動脈瘤に影響しないと説明する(前記七2(二))。

しかし、乙七二の資料3によれば、いずれの教科書においても、脳血管の自己調節機能とは、脳の血流量を一定に保つ機能であると説明されており、そのような機能が働く機序としては、他の組織と同様、血圧が上昇すると血管が拡がり、血管壁をとりまく平滑筋が収縮すること及び血管拡張性の代謝産物としての二酸化炭素が増加した血流によって洗い流されて減少することによると考えられている。

右のような機序によるものとすると、血圧=血流量×血管抵抗の算式を前提として、脳内の血流量が一定であれば血圧も一定であるとする小口医師の説明は、血管の拡張と収縮により血管抵抗が自在に変化することを見落としたものであると言わなければならない。要するに、脳血管の自己調節機能とは、全身動脈血圧が上昇したときは脳血管が収縮して血管抵抗を大きくし、脳の血流量を一定に保つ機能であると解するのが相当である。そうすると、全身動脈血圧が上昇したときに脳血圧が一時的に上昇する(血管壁が張力を一定に保とうとする機能や代謝産物の増減で、右の変化は長時間は持続しないと考えられる。)のは、通常あり得ることと考えなければならない。

したがって、小口医師の説明に基づく被告の主張(三)は失当である。

(三) 右のような一時的な血圧上昇の生ずる機序として、市川医師は、ストレス学説を紹介する(甲一八、一八の資料5、証人市川英彦)。

すなわち、セリエの学説とレーリーの研究に基づき、外からの刺激(ストレッサー)が長期間にわたって身体に加わると、大脳皮質の興奮が大脳視床下部を通じて下垂体副腎系と自律神経系に作用し、各種ホルモンの分泌と交換神経の緊張状態を生じ、これにより体温や血圧、血糖値の上昇等の身体活動の活発化(警告反応期)、身体の適応状態(抵抗期)、疾病の発生(疲憊期)と進むというものである。

ストレス学説自体は、ストレス自体の客観的尺度がなく、右のような疾病に進む機序についても個人差が大きいという難点を有するが、ストレスによる各種ホルモンの分泌と交換神経の緊張という作用自体は医学的に間違いがないものとされており(証人小口喜三夫)、時間の因子だけが問題とされるようである。すなわち、小口医師は、ストレスによる疾病の発生は五年一〇年と続けばじわじわと病気が進行するという意味で肯定できるとする(証人小口喜三夫)。しかし、一定の強さを持ったストレスが激しい症状の病気を急性に引き起こすこともある(甲一八の資料5)との見解もあり、各種ホルモンの分泌と交換神経の緊張という作用及び一時的な血圧上昇という結果は、通常は短時間のものと考えられるから、血圧上昇の繰り返しによる血管壁の脆弱化(これは、動脈硬化の形成に類似する〔証人市川英彦〕。)とは異なり、外からの刺激がストレスといえる程度に継続している場合には、急激な病変をもたらすこともあり得ると解するのが相当である。

(四) 以上によれば、一定の強さのストレッサーにより、一時的に急激な全身動脈血圧の上昇とこれに伴う脳血圧の上昇が生じ、もともと中膜や弾力線維が欠損しているために一定の脆弱性を有する脳動脈瘤壁に対し、その生理的限界を越える程度の圧力がかかって脳動脈瘤が破裂するということは、十分に考えられ、このような機序を想定することは、現代医学の枠組みの中で考える限り、医学的知見に反するものではない。

(五) なお、原告は、血圧上昇の繰り返しによる血管壁の脆弱化の機序についても主張する。

実際の生活の中で、脳動脈瘤が破裂しそうになりながらことなきを得ることの繰り返しが行われており、これにより脳動脈瘤壁の脆弱化が進むことが考えられる(証人市川英彦)が、右は、日常の血圧変動の範囲内でも同様であり、むしろ、自然的経過による病変と同質のものと見るべきである。ストレスとの関係でいえば、血管壁の脆弱化は、血圧上昇の繰り返しというよりは、血行障害や血管の梗塞壊死を介して生ずる長期的な病変の要素が強いものと解するのが相当である(甲一八の資料5)。

八  本件疾病と喜久男の業務の関係

1  以上のような喜久男の精神的負荷の程度、肉体的負荷の程度、疲労と業務の関係、喜久男の従前の健康状態、喜久男の発症時の状況その他の事情、脳動脈瘤破裂の発生機序を総合して検討すると、喜久男の本件疾病と業務の関係は、以下のとおりであると推認するのが合理的である。

(一) 喜久男にはこれまで特記すべき既応歴等はなく、健康診断でも特に脳血管障害を疑わせる所見もない。喜久男は、信菱電機に入社する以前に東京で一年半、伊那で約四か月、別の会社で工場労働に従事してきたものであるが、この間に出血その他の臨床症状を呈したことはなく、喜久男の基礎疾患である脳動脈瘤は、年齢から見て、ほぼ先天的要因によるものと考えられるが、自然的経過による発症はもちろん、従前の工場労働者としての業務による発症も生じない程度のものであった。

(二) 喜久男の業務は、既に認定したように精神的負荷、肉体的負荷ともに過重であり、このような担当業務内容は、昭和五六年九月一六日から約二年三か月にわたり一貫して、長時間労働は、時期により変動はあるものの、時間数の少ない時期の部類である発症前三か月間においてもなお製造業平均よりもはるかに長時間にわたり、それぞれ継続していたものである。

(三) 右のような過重な精神的負荷、肉体的負荷の全てが本件疾病に結びついたとまではいえないが、遅くとも昭和五八年六月ころから、喜久男に著しい程度の疲労が生じ、これは死亡に至るまで回復することなく継続し、むしろ疲労の程度が増大していったものである。そして、昭和五八年六月から同年九月までのVP用基板の生産立ち上げ期において再び相当な長時間労働に戻り、かつ、休日出勤により二〇日間、三四日間、三二日間といった連続勤務が続き、深夜残業も多かったことが疲労を回復するための十分な休息をとることができなかったという点で、右疲労の程度の増大に関する最も有力な原因となったというべきであり、他にこれを上回る有力な原因を見出すことはできない。

(四) 著しい疲労の存在は、喜久男にとって強いストレッサーとなったことは容易に推認することができる。ストレスが一時的な激しい血圧上昇の要因となりうることは既に認定したとおりである。具体的にどの程度の数値の血圧上昇をもたらしたかを確定することはできない(喜久男は発症後短時間のうちに死亡しており、発症直後の血圧値を証明するのは不可能である。)が、もともと一定の脆弱性を有する脳動脈瘤に対し、このような激しい血圧上昇が生じた場合、自然的経過を越えて発症、すなわち脳動脈瘤破裂の時期を早めた蓋然性が高い。

(五) そして、喜久男は発症直前には、相当長期の休養をとらなければ疲労が回復しない程度にいたっており、このような強いストレスの下で、僅かの刺激により血圧が急激に上昇しやすい状態にまでなっていたところ、昭和五八年一二月一四日午後九時一五分ころからの本社第二工場での応援残業中に著しい血圧上昇を生じ、ついに脳動脈瘤が破裂し、くも膜下出血を発症した。

なお、右(三)、(四)のように、喜久男の血圧上昇の原因は発症当日以前に既に形成されていたものというべきであるから、喜久男が本社第二工場での応援残業に従事していたかどうかは本来業務起因性の判断において重要ではないといえるが、残業のはしごともいうべき応援残業従事中の発症の事実は、信菱電機の長時間労働が常態化している点で、喜久男の業務に内在する危険(一般に品質管理業務に通常伴う危険ではないが、本件では、代替性のない技術者である喜久男に過重な責任が負わせられたこと、信菱電機の残業管理がルーズであったことも含めて喜久男の個別具体的業務に内在する危険ということができる。)が現実化したものと解することができる。

2 そうすると、喜久男のくも膜下出血は、先天的基礎疾患である脳動脈瘤が破裂して生じたものであるが、喜久男の担当業務が基礎疾患を有する喜久男にとって過重な負荷となり、その基礎疾患を自然的経過を越えて増悪させて発症を早め、通常の基礎疾患発症の自然的経過を越えて死亡の結果を生じさせたものというべきである。

したがって、本件発症については、業務が相対的に有力な原因となっているとみられ、喜久男の本件業務と死亡との間には相当因果関係が認められる。

第四  結論

以上のとおり、喜久男の死亡に業務起因性がないとして遺族補償給付及び葬祭料の支給を認めなかった本件処分は違法であり、その取消を求める本訴請求は理由があるからこれを認容し、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官前島勝三 裁判官杉山愼治 裁判官忠鉢孝史)

別紙1

熊谷喜久男の勤務状況表

昭和55年NO1

出勤日数

残業時間数

1日当り

残業時間

休出日

1日当り

労働時間

出張回数

遅刻・

早退時間

労働時間

所定内

休出

残業

深夜

休出

55.7

26

26

34

34.0

1.3

1.5

8

25

25

39

1.5

40.5

1.6

9

24

3

27

93

12.5

20.0

125.5

4.4

6.7

10

24

4

28

78

6.0

21.5

105.5

3.5

5.4

2.0

11

26

2

28

78

5.0

8.0

91.0

3.2

4.0

1.5

12

25

25

42

42.0

1.7

4.0

合計

150

9

159

364

25.0

49.5

438.5

2.6

5.5

9.0

1554.5

(注)

1.表の日数及び時間数は、当該事業所のタイムカードより算出したもので、事業所労務担当者が調査官に立会って確認している。

2.出張についても時間計算を行っており、出張日の残業時間も含まれている。

3.本表における各月分の出勤日数、残業時間数等は、前月の16日から当月15日までの期間における実績である。

(例、55.7は55.6.16〜55.7.15)

4.上記1〜3については、昭和56年〜昭和58年の各表においても同様である。

昭和56年

NO2

出勤日数

残業時間数

1日当り

残業時間

休出日

1日当り

労働時間

出張回数

遅刻・

早退時間

労働時間

所定内

休出

残業

深夜

休出

56.1

20

20

26.0

1.5

27.5

1.4

2

25

25

44.5

3.0

47.5

1.9

3

24

24

52.0

52.0

2.2

4

25

1

26

30.5

31.0

4.0

65.5

2.5

4.0

5

23

3

26

25.0

35.5

8.5

69.0

2.6

2.8

6

26

26

33.5

25.0

58.5

2.6

1.5

7

26

26

36.5

5.0

41.5

1.6

8

23

23

22.0

12.0

34.0

1.5

9

25

2

27

47.0

14.5

12.5

74.0

2.5

6.3

0.5

10

25

2

27

104.5

34.0

17.0

155.5

5.5

8.5

3

11

25

6

31

89.0

23.5

26.5

139.0

4.5

4.4

12

26

3

29

100.0

43.5

11.0

154.5

5.5

3.7

4.5

合計

293

17

310

610.5

228.5

79.5

918.5

2.9

4.7

3

6.5

3109.5

昭和57年

NO3

出勤日数

残業時間数

1日当り

残業時間

休出日

1日当り

労働時間

出張

回数

遅刻・

早退時間

労働時間

所定内

休出

残業

深夜

休出

57.1

21

4

25

61.5

13.0

25.0

99.5

3.5

6.3

2

26

5

31

97.5

13.0

30.5

141.0

4.3

6.1

3

23

5

28

86.5

19.0

25.0

130.5

4.6

5.0

0.5

4

26

1

27

57.0

8.0

2.0

67.0

2.5

2.0

0.5

5

24

4

28

65.0

18.0

35.5

118.5

3.5

8.9

6

26

4

30

80.5

34.5

25.0

140.0

4.4

6.3

7.0

7

26

3

29

88.0

28.5

21.5

138.0

4.5

7.2

1

8

24

2

26

57.0

21.0

17.5

95.5

3.3

8.8

4.0

9

25

4

29

76.5

7.5

19.0

103.0

3.4

4.8

1

10

23

4

27

73.0

14.5

31.5

119.0

3.8

7.9

3

3.5

11

25

2

27

81.0

10.0

14.0

105.0

3.6

7.0

6.5

12

25

25

66.0

3.5

69.5

2.8

2

合計

294

38

332

889.5

190.5

246.5

1326.5

3.7

6.5

7

22.0

3509.5

昭和58年

NO4

出勤日数

残業時間数

1日当り

残業時間

休出日

1日当り

労働時間

出張

回数

遅刻・

早退時間

労働時間

所定内

休出

残業

深夜

休出

58.1

20

20

16.5

0.5

17.0

0.9

2.5

2

26

2

28

53.5

22.0

11.5

87.0

2.9

5.8

1

3

24

1

25

49.0

6.0

11.0

66.0

2.3

11.0

2

1.5

4

26

3

29

59.5

19.0

20.0

98.5

3.0

6.6

1

5

22

3

25

48.0

3.0

20.0

71.0

2.3

6.6

1

6

27

2

29

75.5

11.0

12.5

99.0

3.2

6.3

4

7

26

3

29

52.5

30.0

17.0

99.5

3.2

5.7

8

24

3

27

54.5

18.0

26.5

99.0

3.0

8.8

1

1.0

9

25

4

29

75.5

4.5

19.5

99.5

3.2

4.9

10

24

2

26

65.0

7.5

9.5

82.0

3.0

4.8

3

1.5

11

25

2

27

70.0

2.0

7.5

79.5

2.9

3.8

1

2.0

12

25

1

26

67.0

7.0

1.5

75.5

3.0

1.5

1

合計

294

26

320

686.5

130.5

156.5

973.5

2.8

6.0

15

8.5

3170

別紙2

熊谷喜久男の勤務実績(年毎)と製造業平均の比較

昭和56年10月

~同年12月

昭和57年

昭和58年

12月14日まで

喜久男の

勤務実績

所定外労働時間(A)

449

1326.5

973.5

総労働時間(B)

1033.5

3509.5

3170

休日出勤日数(日単位)

11

38

26

深夜残業時間

101

190.5

130.5

製造業 平均

所定外労働時間(a)

48

186

194.4

総労働時間(b)

532.2

2124

2136

比較

A/a (倍)

9.35

7.13

5.0

B/b (倍)

1.94

1.65

1.48

別紙3

区分

時間外

退社時刻

帰宅時刻

参考事項

58.12.1(木)

1.0

18:22

19:00

2(金)

17:00

20:00

退社後桜井和志(友人)と喫茶店で逢う。

3(土)

0.5

18:02

22:00

退社後太田(同工場従業員仲人)と花井京子(婚約者)と食事

4(日)

仲人.花井両親と被災者宅において結婚打合せ、夕方飯田に買物

5(月)

6.0

23:11

23:35

6(火)

4.0

21:10

21:35

7(水)

4.5

21:40

22:00

8(木)

4.0

21:20

21:45

9(金)

2.5

19:50

20:20

10(土)

1.5

18:42

22:00

婚約者と逢う、名古屋の伯父夫妻被災者宅において正式仲人依頼

11(日)

母と二人で飯田市で買物

12(月)

2.0

19:19

19:50

別紙4

熊谷喜久男の勤務実績(一か月当たり平均)の推移と製造業平均の比較

①:昭和55年7月ないし昭和56年9月

(本社工場在勤中)

②:昭和56年10月ないし同年12月

(毛賀工場におけるVTR用基板生産の当初、三菱電機から指導員が来ていた時期)

③:昭和57年1月ないし同年3月

(VTR用基板生産の立ち上げ期)

④:昭和57年4月ないし同年10月

(VTR用基板生産の安定期のうち前半七か月)

⑤:昭和57年11月ないし昭和58年5月

(VTR用基板生産の安定期のうち後半七か月)

⑥:昭和58年6月ないし同年9月

(VP用基板生産の立ち上げ期)

⑦:昭和58年10月ないし同年12月

(VP用基板生産の安定期)

〔いずれも小数点以下二桁以下は四捨五入〕

喜久男の勤務実績

所定外労働A

60.5

149.6

123.7

111.6

73.4

99.3

79

総労働B

242

344.5

298.5

295.9

251.9

290.3

262.8

休日出勤

1

3.7

4.7

3.1

1.6

3

1.7

深夜残業

10.2

33.7

15

18.9

9.1

15.9

5.5

製造業平均

所定外労働a

16.2

16.0

15.5

15.5

16.0

16.2

16.2

総労働b

177.7

177.4

177.0

177.0

177.7

178.0

178.0

比較

A/a(倍)

3.7

9.4

8.0

7.2

4.6

6.1

4.9

B/b(倍)

1.4

1.9

1.7

1.7

1.4

1.6

1.5

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